玄奘三蔵法師といえば、かの「西遊記」によって人々に親しまれている名僧であり、また経典を求めて遠く天竺(インド)まで苦難の旅路を続ける法師を助けて、妖怪相手に大活躍する「孫悟空」は誰しもが知っているヒーローです。
ところがこの仏教史上「玄奘以前に玄奘なく、玄奘以後に玄奘なし」と云われた大偉人の霊骨が、慈恩寺に奉安されていることを知る人は意外に少なく残念なことです。
十三重の花崗岩の石組みによる玄奘塔を訪れる人は、中国と我が国の仏教文化の架け橋であることを感じていただけることでしょう。

昭和17年12月、第二次世界大戦のさなか、南京を占領していた日本軍が、中華門外に駐屯し、稲荷神社を建立しようということになり丘を整地していた時に、石棺を発見しました。石棺には宋の天聖5年(1027)に三蔵法師の頂骨が演化大師可政によって長安から南京にもたらされたことが記されていました。日中両国の専門家が調査の結果、玄奘三蔵法師の頂骨そのものであることが確認されました。
中国では偉大な人物や国王の墓に、数々の価値ある副葬品が収められるのが通例であり、盗掘が行われ、墓が荒らされたままであったことが南京への葬られたことの原因と考えられます。
発見の翌年、頂骨は仏像・銀・錫製の箱等の副葬品と共に南京政府に還付されました。翌昭和19年には、南京玄武山に玄奘塔が完成し、盛大な式典が行われました。

玄奘塔完成の式典の際、「法師は仏教の一大恩人であり、日中の仏教徒が永遠に法師の遺徳を大切にしよう」という趣旨で分骨され、日本仏教徒代表の倉持秀峰氏に手渡されました。こうして霊骨は日本にもたらされることになりました。
来日した霊骨は当初、仏教連合会の置かれていた東京、芝の増上寺に安置されましたが、第二次世界大戦末期、東京では空襲が始まっており、万が一灰燼に帰することがあってはならないということで、一時は倉持会長の住職寺である蕨市三学院に仮安置されました。

しかし、三学院も東京に近く、安全が計り難いということで再度、日本仏教連合会では疎開先を検討し、慈恩寺に仮奉安することになりました。当山の第五十世大島見道住職が、日本仏教会の事業部長であったこと、慈恩寺が平安時代に慈覚大師の開基であり、三蔵法師ゆかりの長安の大慈恩寺からその名をとって慈恩寺と名付られた由来もあり、歴史と格式のある寺院だったことが慈恩寺に奉安された理由と考えられます。
昭和19年12月、寛永時に於いて日本仏教連合会主催の下に、日中各界の有志の臨席を得て、法要を行った後、慈恩寺檀信徒の恭迎の中、慈恩寺に奉安されました。

昭和20年に我が国は終戦を迎え、仏教連合会では、いわゆる疎開先であった慈恩寺から正式な奉安の地を決することになっていましたが、国民の生活も安定しない時勢でありましたので、そのまま昭和21年を迎えました。しかし、戦時中に中国政府から贈られた霊骨ではありますが、戦時下の事で、このままで良いのか・・という問題が提起されました。
この頃、慈恩寺に寄宿しておられた仏教連合会顧問の水野梅暁師が新中国の蒋介石主席と親交もあり、主席の意向をお伺いすることになりました。
昭和21年12月、霊骨奉安3周年記念法要の際、蒋介石主席の意向が伝えられました。
「霊骨は返還に及ばないこと、むしろ日中提携は文化の交流にあり、日本における三蔵法師の遺徳の顕彰は誠によろこばしいことであり、しかも、奉安の地が法師と何等かの因縁の地であるからは、この地を顕彰の場と定めては」
との意向であり、こうして正式に慈恩寺の地に霊骨塔建設が決定したのであります。

水野梅暁師と当山住職は、建塔の事業に取り組み始めました。日本仏教連合会を通し、東部鉄道の根津氏が用意した十三重六十尺の花崗岩の石組の寄進をいただき、敗戦混乱期の中、多くの方のご協力をいただきながら、昭和24年建塔工事が始まりました。
昭和25年2月、塔の礎石を据え終わり、納骨式を挙行しました。
建塔の財政が思うにまかせず、落慶式が行われたのは昭和28年5月のことになりました。建塔より3年の歳月をまたねばならない経済事情の中であったとはいえ、内外の有識の方々の参列をいただき、盛大に執り行うことができました。

昭和30年に、中華民国(台湾省)仏教会から霊骨を台湾へ迎えたいとの要請が、日本仏教連合会に申し入れられました。中国から直接霊骨を迎えることが困難な国情もあり、日本に要請するしか方法がなかったと考えられます。仏教連合会で協議の結果、よろこんで要請を受諾することに決定しました。
同年11月、倉持秀峰師・真言宗豊山派長岡管長・真言宗智山派阿部宗務総長・仏教連合会柳理事・慈恩寺住職大島見道により、霊骨の一部を奉持、台湾へ渡りました。
台湾では、仏教会を中心に国家的行事として国賓待遇で迎えられ、霊骨を贈呈申し上げました。その後、台湾では慈恩塔・玄奘寺を建立し、霊骨を奉安されました。

徐々に玄奘法師の遺徳を慕って心を寄せられる人々が増加する中、奈良西の京の薬師寺から分骨を奉迎いたしたいとの意向が伝えられました。薬師寺は法相宗ではありますが、宗祖は慈恩大師基窺という方で、この大師の師が玄奘法師でありました。
管長より慈恩寺に要請がありましたが、当山は日本の仏教徒へ贈られた霊骨をお守りする立場ですので、日本仏教連合会に意向を伝えた上で協議の末、住職の一任という形になり、薬師寺への分骨が実現することになりました。
昭和55年11月、解塔の上 霊骨を取り出し、慈恩寺客殿において、仏教連合会柳理事長・天台宗埼玉教区江田宗務所長の立会いの下、大島住職より高田管長に分贈申し上げ、翌56年薬師寺落慶法要に期を合せ、薬師寺に赴き正式にお渡し申し上げました。
私は昭和53年、父見道の後を承けて慈恩寺第五十一世を継ぎました。思えば昭和25年玄奘塔建設の折、塔内へ霊骨を奉安したのも私なら、薬師寺様へのご分骨で解塔申し上げたのも、更には水晶の壷を開いて霊骨を分骨申し上げ、再び奉持して塔内へお納め申し上げたのも私であります。

建塔奉安の折、もはや再び誰の目にも触れることはあるまいと思ったことが再びおこり、しかも私自らの手に奉持し、分骨申し上げるというまことにおそれ多い、願っても与えられないことが、片田舎の住職に一度ならず二度まで与えられたということは、唯事ではない因縁を感ずるのであります。

仏教ではもののいのちは永遠であると考えられています。とすれば、1300年の昔、三蔵法師が中国からインドへの経典をもとめて大偉業の中で、過去の私がいささかの手助けをしたからこそ、今この世に人と生まれて、余人を措いて法師の霊骨を奉持するご縁をいただけたと思わずにはおれません。でなければ、仏教徒として高徳の方々をさしおいて、名もない片田舎の住職にこのような機会が与えられるはずもないでしょう。

最近は、檀信徒の方々のご理解とご協力をいただきながら、当寺も着々と整って参りました、また、玄奘法師のご威徳に関心を寄せてくださる人々も年々増えております。今後はさらに皆様のご縁をいただきながら、法師の遺徳の顕彰に努力いたしたいと考えております。以上、因縁の不思議を感じながら霊骨をお迎えしたいきさつを記させていただきました。