中世における慈恩寺領には、本坊42坊・新坊24坊の併せて66坊もの塔頭が存在しましたが、岩付周辺に古くから勢力を持っていた渋江氏らの在地土豪層や破戒僧らに支配されており、慈恩寺領内はかなり入り乱れている状態でした。
この状態をまとめ慈恩寺領を明確にしたのが、岩付太田氏でした。天文20年(1551)の判物によると、それまで慈恩寺66坊の内、渋江氏等により支配されていた18坊を、太田資正の代をもって慈恩寺に寄附し、以後慈恩寺領を66坊とすると書かれています。
その後、慈恩寺領は太田氏の支配から北条氏の支配に移り、天正17年(1589)に北条氏房の家臣、伊達房実によって寄進された南蛮鉄灯篭は今も境内に安置されています。

天正18年(1590)豊臣秀吉の命により、徳川家康は関東に入り関八州の支配を開始し、民心の懐柔政策の一環として、有力寺院に寺社領の寄進を実施しました。
慈恩寺にも寄進状が家康によって天正19年(1591)に交付されています。この朱印状によると石高は100石で当時の寺領としてはかなり高いものでありました。
江戸幕府が成立した後、全国の各宗派本山格の寺院に「寺院法度」が発せられ、慶長18年(1613)に慈恩寺に対しても「武蔵国太田庄慈恩寺法度」として発せられています。 その内容は、
  第一条 学頭が法度を下地すること
  第二条 公用の造営をはじめ、寺内の家屋の管理は学頭の指示に従うこと
  第三条 寺院に対して中世以来与えられてきた特権である山林竹木等の課役免許に関することが述べられています。この法度は格宗派の本山格の寺院に与えられた後に、その配下の本末関係寺院に伝達されました。

元和2年(1616)徳川家康が亡くなり、遺骨は一時久能山に葬られましたが、遺言により翌年に日光山に移され東照大権現と称されました。元和3年二代将軍秀忠により第1回目の日光廟参詣が執行され、以後17回に及ぶ将軍の日光社参が行われることとなりました。
日光社参の際の将軍の宿泊地の一つに往復とも岩付城があたっていて、将軍が慈恩寺に立ち寄られることもあり、「徳川実記」にも寛永17年に三代将軍家光が慈恩寺で昼食をとったことが記載されています。
また、慈恩寺には上野東叡山寛永寺門跡を兼務していた日光御門跡が、往復の際にしばしば訪れて宿泊しました。

天和2年(1682)になると、寺領は三つに分かれ、慈恩寺村・表慈恩寺・裏慈恩寺とされました。66坊の塔頭も多くが農地となり、文化文政時代(1804〜1892)には9坊を残すのみとなりました。